西陣織の歴史について

1-古代の西陣

平安京遷都以前の京都盆地には主に八つの氏族がいたと思われます。出雲氏族(山陰の出雲より来た氏族で亀岡盆地を経て丹波路をとおり京都盆地北西部に定着したと思われます)、秦氏族(中国新王朝の弓月君の子孫と称する氏族で、現在の太秦の地域に定着したと思われます)、八坂氏族(大和地方の先住氏族で、木津川を経て京都東山連峰の麓に定着したと思われます)、鴨氏族(大和の葛城氏の子孫で、鴨川(現在の堀川通)を北上して賀茂郷に達し定住したと思われます)、小野氏族(近江の国の小野の里から山城、現在の山科、左京、東山一帯へ定着したと思われます。)、百済氏族(朝鮮半島の百済系の渡来人の子孫で、巨椋池一帯に勢力を持っていたと思われます。後に近江地方に移住しました。)、高麗氏族(朝鮮半島の高句麗系の渡来人の子孫で、南山城地方に勢力を伸ばし後に近江地方に移住しました。)、土師氏族(大和先住氏族で、桂川を北上して、大江の里勢力を築く。)の八つの氏族が平安京遷都に影響を及ぼしたといわれています。



2-平安遷都

平安時代になると整然とした道路網が東西南北に引かれ、内裏の南にある朱雀門から南へ朱雀大路が延びていてこれを中心に平安京は造成されました。この朱雀大路の起点は船岡山を見立てて造られました。この大事業は京都盆地に先住していた八つの氏族の協力があったといわれています。そして、この都を中心にして日本は律令国家としての体制を整えていきます。この頃の西陣の地域は一条大路の北側にあり、未だ開発されていない地域でしたが、平安時代初期に織司という役所が置かれ、織物職人が集まる場所があったようです。そして、10世紀にもなると今の西陣の地域(一条大路以北地域)もだんだん開発されて平安京を越えて町が発展して行ったようです。市民の祭礼である御霊会も盛んに行われ、賀茂神社の祭礼も盛んであったと思われます。しかし、12世紀頃になると都の中心の内裏はだんだん荒廃していき、鎌倉時代以降になると「内野」と呼ばれるほどただの空き地となってしまったようです。



3-鎌倉室町時代

鎌倉時代には西陣の地域は「雲林(うじ)」と呼ばれ、貴族の邸宅や大寺院などがあり、町を形成していたと思われ、この人口密集地域が京の町の「上町」に発展していったと思われます。そして、南北時代の騒乱や権力者の町の造成によって、室町時代になるとさらに京都の町はさらに変貌を遂げていきます。室町幕府三代将軍足利義満によって、柳原,北小路,烏丸,室町通に囲まれた場所に「花の御所」を造成しました。室町通沿いを正面としたので「室町殿」「室町御所」と呼ばれるようになりました。この「上町」の辺りに、南北両朝の合体にともなってそれまで北朝の皇居であった東洞院土御門殿が正式に内裏として作り直され、様々な政庁が京都の町の東北部に作られ、これが現在の京都御所に発展していきます。そしてこの地域に大大名の細川氏、畠山氏などの屋敷が作られ、「花の御所」の東側に現在も残る当時七重の塔が建てられた相国寺も建立されました。反対に西陣の西部地域では北野神社を中心とした地域で商業活動が盛んに行われていました。鎌倉時代以降には「大舎人(おおねとり)」という織物技術集団がこの北野地域を中心に活動していて、中国の唐織にも劣らぬ織物を生産していたと思われます。その訳は、この地域には「七保」と呼ばれる自衛集団の一つのが北野の社の庇護の下、麹の独占販売していて、商業活動がとても盛んであったと思われます。



4-応仁の乱

西陣の語源となった事件の応仁の乱にいたる経過は、七代将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に殺されるという事件(嘉吉の変)がおき,2年後,義教の子,足利義政が僅か9歳で八代将軍となるが,実権は細川,山名,畠山,斯波などの大名が握っており,政治は混乱しました。そんな折、京の都には天候異変が続き,山城,大和に大暴風雨が襲来したり、鴨川が大氾濫を起こし,無数の溺死者が出るなど大被害をもたらした。そして、水害後には飢饉が訪れ、洛中の飢死者8万余人と言われ,都は屍臭たちこめる一大葬地と化したようです。米の価格は高騰し,各所で徳政をもとめる一揆が激発した。しかし,幕府はこうした事態に何一つ手を打てずにいました。また,将軍家では相続問題が起こっていて、政治を細川,山名,畠山らの各大名に任せた義政は,隠居して風雅の道に生きることを考えたようです。正室日野富子との間の嫡子が幼くして死んだため,浄土寺門跡であった弟の義尋(義視)を還俗させ,次期将軍職を約束,その後見に細川勝元を据えた。しかし,翌年,日野富子が男子を出産。この,実子・義尚の誕生で情勢は一変しました。富子は山名宗全を後見としたので,2大勢力である細川,山名の両派が対立し,幕府を2分して争う結果となりました。管領家のひとつであった畠山家でも相続問題が起こり,畠山義就は山名を,畠山政長は細川を頼ったため,2大勢力の対立はさらに拡大,険悪化していきました。応仁元年(1467)正月7日,山名宗全らの策謀により,管領・畠山政長は失脚して、面目を失った政長は,自邸に火を放ち上御霊神社の森に布陣して立て籠る。畠山義就は同月18日早朝,上御霊社の政長陣を奇襲,社殿などが火に覆われ,政長軍は細川邸へと逃れました。この戦いが導火線となり,やがて細川勝元を将とする東軍と山名宗全率いる西軍との戦い――応仁の大乱へと発展,以後11年に及ぶ内戦が京都で繰り広げられました。東軍細川勢は花の御所を拠点とし,西軍山名方は宗全邸を本陣としたため,その中間に位置する小川一帯,特に小川寺之内に架かる百々(どど)橋などは激戦場となったようであるが,もちろん戦火はその付近のみにとどまらず,京都の街は一面の焼野原になってしまったのである。山名宗全は東にいる畠山政長に対して自分の館である西に陣をひきました。その場所が現在の「西陣」であるのでその名の由来となりました。その当時の人々は生命財産を守るため様々な自衛手段をとりました。「構(かまえ)」や「堀」などの防御施設の建設もそのひとつでした。上町の構は,実相院構,白雲構,柳原構,讃州構,御所東構,山名構,伏見殿構,北小路構,武衛構,御霊構などが諸文献にみえますが,それは,武家の要害的なものと公家や庶民の自衛的なものとに大別できます。上京の随所にこうした構や堀があり,当時の上町は全域が要害化された都市景観を呈していたと思われます。



5-大乱の後

応仁の乱後,西陣は大きな変化を迎えます。乱の最中,堺や奈良,近江などに避難していた大舎人の織手職人が,西軍の陣地があった西陣地区に帰って座の復活に努め,やがて西陣の機業地へと発展させ、町家も復興させました。しかし,天文5年(1536)の「天文法華の乱」で,西陣は再び大きな打撃を被ります。この事件は比叡山延暦寺による法華宗への弾圧行為でした。当時,荘園からの年貢で何とか経営されていた延暦寺などの旧仏教系大寺院に対し,新興の法華宗は後藤,本阿弥,茶屋,野本などの有力町衆を中心とする檀家によって運営されていました。京の町は法華題目で溢れ,特に富裕な西陣の新在家の人々はほとんどが法華宗に帰依しており,これが天台をはじめとする旧仏教系宗派の脅威となりました。延暦寺の僧兵を使った弾圧に対して法華宗徒らは町に堀や柵を設けて攻撃に備え,ついに宗教戦争へと発展。多くの法華宗徒が戦死し,上町や西陣地域を含めた町の3分の1が焼失しました。しかし、その乱後の数年で復興し、室町上立売に「立売りの町」が形成され,西北部の北野社を中心とした商業地区同様,目覚しい発展を遂げました。こうした経済的発展とともに,町衆による娯楽も現れてくる。16世紀に流行した「風流(ふりゅう)踊り」もそのひとつである。これは怨霊鎮めや先祖霊鎮めのため,華麗な装束を身に纏った練り衆が囃子を奏して踊り歩く盆行事であった。この時の祭礼の中に鎮花祭として「やすらい祭」が記録されています。永正3年(1506)には細川政元による停止令が出されたが,その後も流行は続いた。文献によれば,上京では上京日々風流,武者小路風流,室町衆風流,立売町踊,六町衆躍,一条室町踊,上京中躍などが盛んで,町々では盆の万灯会も出されて賑わった。一方,半職業的な手猿楽もこの頃,上京から生まれている。上京室町の住人で,渋谷太夫と呼ばれた手猿楽師は,後に一座を組織し九州日向地方にまで巡業したほどであった。

6-信長上洛

西陣は再度の災害や戦争に見舞われながらも急速な復興を遂げるが,永禄11年(1568)の織田信長の上洛によりまたも大打撃を被ります。当時は,国内絹製品のほとんどを生産する西陣や,最も富貴な人々の居住地の上町があって、京都の町の影響力はかなりありました。信長は,上洛の翌年,室町勘解由小路(現在の室町下立売付近)に将軍義昭のための新たな邸宅造営に着手し,その協力を西陣や上町の町衆に課しました。この新第建築は驚異的な速さで進められ,「武家御所」「公方之御城」などと呼ばれた壮大な邸宅が僅か70日にして完成しました。他に信長は,上町の富豪に対する「唐物名物」の強制買い上げ,いわゆる名物狩りも行いました。新在家に住む豪商の池上如慶や江村氏,大文字屋,祐乗坊,法王寺,佐野氏などから天下の名物を強制的に出させました。しかし,富裕を自認する町衆は明らかな反信長行動を取りました。激怒した信長は,将軍義昭との間の不和を理由に,京中焼打ちという威嚇に出た。上京,下京の住民は信長に銀を贈り焼打ちを逃れようと努めるが,上京のみは聞き入れられず,元亀4年(1573)4月,焼打ちされ,焼失家屋6000〜7000軒という被害を受けました。当時信長の側にいた宣教師ルイス・フロイスは本国への報告書で「上の都の人は富み且つ傲慢なるが故に,条件を良くしてかえって信長の不快を招き,更に建築に着手せる宮殿の周壁を破壊したることにより,その怒りに触れたり。(中略)上の都の人々は献納したる銀1300枚に少しも頓着せざるを見て,彼らは傲慢なりしが故に心中これを憤りたり。云々」と述べています。まさに,富裕なるが故に自らを過信した上京町衆の敗北でありました。同年7月,信長は焼打ちした上京に対して復興命令を出しましたが,再建には数年を費やしました。



7-秀吉の造成

本能寺の変以後の豊臣秀吉が天下の実権を握った時、京都の町は激変します。秀吉は平安京の大内裏跡である内野を利用して「聚楽第(じゅらくてい)」の建設に着手しました。そこは御所の西,僅か1キロメートル余りの場所で、工事は諸大名に命じられ,10万余の人夫によって進められた。深さ5.4メートル,幅36メートル,全長1800メートルに及ぶ堀も瞬く間に完成し,諸大名の邸宅も順次竣工,千利休も葭屋町に屋敷を与えられました。そして着工から1年後には金箔瓦に覆われた聚楽第が,偉容を現しました。周辺には武家屋敷,公家屋敷,町家などが整然と区画されて城下町のような景観を呈していました。聚楽第に移った秀吉は,翌年4月,室町幕府当時の先例にしたがって,後陽成天皇,正親町上皇らを新装なった聚楽第に招く「聚楽行幸」を実現し、権力者としての地位を内外にしめしました。他にもまた,秀吉は北野の森で空前絶後の大茶会を催しました。京の街の高札場に出した触書で,彼は一般民衆にも大茶会への参加を呼び掛け、北野社の拝殿の周囲には秀吉をはじめ,利休・津田宗及・今井宗久ら茶頭の4茶席が設けられ,北野の森には1000を超す茶席が並び,公家や武士,町人などの数奇者がおおぜい集まったという。御所の修築も行われました。御所修築は信長時代にもあったが,秀吉のそれは新造ともいうべき本格的なもので,御所は面目を一新。聚楽第と御所の偉容は,上京の景観を完全に変えました。
秀吉は都市改造も断行した。洛中を取り囲む「お土居(どい)」の構築と街区の再編成を命じました。お土居は,東は鴨川,北は鷹峰,西は紙屋川,南は九条に至る延長22.5キロメートル,高さ約4〜5メートルの土塁で,外側には幅4メートルから18メートルの堀を伴った。この土塁は,外敵侵入を阻止する軍事的意味合いと同時に,鴨川など河川の氾濫から市街地を守る役割を持っていました。秀吉は,かつての平安京をイメージしながらも,京都の地形並びに治水対策を考えた綿密な計画のもとに都市改造を行いました。これにより、京都は聚楽第を中心に巨大な城塞都市に変貌しました。お土居の造成に前後して寺院街の建設も行われました。各寺院を強制移転させ,市街地の東側には「寺町」を,北部には「寺之内」を形成しました。また,市街地も四条室町を中心に四分割して,それぞれに特徴を持たせ,条坊制に基づく平安京の町(120メートル四方)を短冊形に改め道路幅も縮小,ほぼ現在の道幅に変更しました。改造された京都の街は,平安京のイメージは残すものの,聚楽第と御所を中心とした軍事的性格を持つ城下町的形態となり,平安京の左右対称的な構造は失われましたが、近世以降の城下町の原形となり,以後,この形式が全国各地に受け継がれました。安土桃山時代になると,「小袖」という単純形式の衣装が流行しました。小袖は,素材や意匠の差が身分差を識別する唯一の要素であり,それまでの形による身分の隔たりを狭めたことから大流行。海外からもたらされた製織技術や染色技法ともあいまって,小袖の新鮮な意匠や色彩が日常生活に華やぎと潤いをもたらしました。そうした服装品の供給源が西陣でありました。当時,西陣機業は21町に及び,京都はいうに及ばず日本を代表する高級織物生産地としての地位を確立していきました。



8-江戸時代の発展

江戸時代になると、京都は経済的な先進地域であり,同時に御所,寺社など特殊な権威を誇る地域であったため,徳川幕府もこの地の掌握に苦心しました。御所および公家の掌握には,「禁中並に公家諸法度」という法令を出す一方,秀吉が行った懐柔策も踏襲し巧妙な操縦法を用いました。慶長10年代になると,幕府の京都における全権代理の京都所司代は公家の集住化を進め,摂家を筆頭に公家屋敷の御所周辺への屋敷替えを行い公家町を形成しました。御所も拡張され,禁裏御所に加え,仙洞御所と女院御所が造営されました。公家町の形成には,その中に幕府の与力や同心衆を住まわせ,禁裏御所や公家衆の動向を監視する目的もありました。烏丸以東,丸太町以北の一帯は,京都の町の特別な街区を形成するようになりました。幕府は表面上「公武之和」を提唱し,将軍自身が上洛し,天皇はじめ公家衆を供応したが、この京都と幕府の間を繋ぎとめるため献身的に努めたのは徳川家康の孫・東福門院(徳川和子)でありました。徳川和子の後水尾天皇への入内は,家康没後の元和6年(1620)に実現しました。入内の時、二条城を出た徳川和子の行列は北へ進み,中立売の橋を渡って御所に向かった。当時,この橋を「戻橋」と称していたが,この日のために「万年橋」と名を変えたと伝えられる。「戻橋」は,『源平盛衰記』に一条堀川の橋と伝えられ,現在もそう伝承されているが,『山城名勝志』には「元土御門堀川橋也,今一条堀川橋を戻橋と言う」とあり,土御門は現在の上長者町であるから,必ずしも位置は一定しない。ただ,少なくともこの当時は中立売の橋を戻橋と呼んでいたのは確かなようです。
そして、もう一人の京都西陣と幕府に繋がりをもたらす女性がいます。五代将軍徳川綱吉の生母「桂昌院」です。桂昌院は「おたま」といい、西陣の出身で、現在の堀川今出川上ル西入ル北小大路町の辺りに生まれたそうです。八百屋仁右衛門の次女として生まれたが、早くに父が死別しました。後に母親が、近所に二条関白家の家司の太夫であった「本庄太郎兵衛宗利」の後妻となったため、織屋奉公に出されたが、その縁で三代将軍家光の上洛の折に随行していた春日の局に見出され、家光に寵愛され五代将軍綱吉を設けることとなりました。「玉の輿」の語源となった人です。この桂昌院が後に、今宮神社や玄武神社の祭礼を整え復活させたり、西陣の織物産業を育成して隆盛させたり、応仁の乱で荒れ果てた京都の社寺(今宮、玄武、七保、北野、奈良の春日大社、晴明神社など)を復興、修復に努めて、南禅寺、永観堂、善峰寺、金蔵寺なども再建したそうです。桂昌院は江戸では評判が悪く、京都では産業の復興など経済繁栄の功績は大きく評判がとてもよかったそうです。

9-西陣の衰退

この西陣の発展にブレーキをかけたのは,享保の大火「西陣焼け」です。上立売通室町西入ル上立売町北側の大文字屋五兵衛宅台所から出た火は,強風に煽られ南北両方へと燃え広がり,辺り一面火の海となったのですが、さらに風向きが東風に変わると,火はさらに西へ燃え広がり西陣一帯をほとんど焼き尽くし,早暁,ようやく鎮火しました。この大火によって,室町通以西,北野天満宮以東,一条通以北,廬山寺通以南の西陣を中心とした上京西北部は大被害を受けた。類焼町数134町,公家屋敷4,武家屋敷1,寺社67,民家等3,810軒が焼失し,死者80人,負傷者は千数百人に達しました。なかでも,西陣は160余町のうち,108町,3千数百軒が被災し,3,012機を失って壊滅同様でした。しかも,機業の焼失はそこで働く従業員たちも職を失うということです。復旧に手間取るほど蓄えのない彼らは生活に困り,離散していきました。さらにその折に8代将軍吉宗による「享保の大改革」が行われ,桐生,長浜,丹後など地方機業の勃興が著しい時期だっただけに,この西陣焼けは西陣機業に想像以上の打撃を与えたようです。幕末にも京都の大半を焼き尽くす蛤御門の変(禁門の変)が勃発しました。京都市街地へ侵入した長州勢が下立売門から御所へ突入,蛤御門付近で会津藩や桑名藩,薩摩藩や新選組などの軍勢と激戦を行ったのでした。堺町御門付近でも両者の戦闘があり,鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。火は3日間燃え続け,堀川と鴨川の間,一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされました。

10-機業の近代化

明治維新後、遷都によって,公家や官吏たちが東上すると有力商人達も京都の街を離れ,京都の人口は35万人から20万人余りに激減してしまい、京都御所の公家町も消失しました。しかし,京都市民は伝統都市の復興,改革への意欲に燃え,立ち上がりました。その例が,西陣を中心に約11,000戸が従事していた繊維産業の近代化でする。官服洋風化に伴う洋服生地の輸入増大で財政悪化に悩んでいた新政府も,洋服生地の国産化や国内繊維産業の強化を図り、京都府は,産業基立金の一部をもとに「西陣物産会社」を設立して、すべての染織業者を部門別会社に統合し,資金貸与を行うとともに,東京や大阪に出張所を設けての販売拡張,原料の共同購入や流通の合理化などに努めました。また,洋式の先進的織物技術であるジャカードを導入すべく、官費で西陣機業界の佐倉常七と井上伊兵衛らがフランスへ留学して、洋式織物の知識と技術を学び,新式織機を購入して帰国しました。もう一方,ウィーン万国博覧会に政府使節団の一員として参加した西陣の工芸家・伊達弥助らも,オーストリア式ジャカードなど新しい織物機械器具を持って帰国しました。こうした人々の努力により,ジャカードとバッタンを中心とする織物技術が西陣に導入されました。これにより西陣の機大工・荒木小平による木製ジャカードの製作など,新技術は確実に普及しました。そして西陣の一般の紋織物はほとんどジャカードによって製織されるほどになりました。そして、現在の西陣の分業化されたシステムが出来上がりました。









「ごのみ」って?

西陣織の職人を増やしたい!

京都の伝統産業である、西陣織の織手は平均年齢70歳。
あと10年もすれば織手がいなくなってしまうと、言われています。
今のうちに織手育成をすることができないだろうか?と立ち上がった伝統工芸士さんの呼びかけで集まった仲間で、西陣織 若手織手育成プロジェクトを立ち上げました。職人育成にかかる費用はこちらのネットショップの売上から拠出します。

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